JA共済連の現状2015デジタルブック
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70Ⅴ組織概要JA共済のあゆみ 昭和23年に農協の共済事業がはじまってから、66年を超えました。人びとが助け合い、支え合って生きてゆける社会の実現という、高い理想からはじまったJA共済は、数多くの組合員・利用者の皆さまをはじめとする地域の皆さまのご理解・ご賛同を得て、大きく成長することができました。■JA共済の父 JA共済の原点は、JA共済の父と言われる賀川豊彦にあります。 大恐慌後のアメリカで、友愛互助による協同組合の必要性を説き、その熱意と高い理想から多くのアメリカ市民に親しまれた賀川豊彦は、日本人初のノーベル文学賞・平和賞候補になり、欧米ではガンジー、シュバイツァーとともに、三大聖人として並び称され、最もよく知られていた日本人の一人です。■生涯を人びとのために 賀川豊彦は明治21年、神戸に生まれました。その生い立ちは決して幸福なものではありませんでした。 幼くして両親と死別し、徳島の親類に引き取られましたが、不治の病と恐れられていた結核に感染してしまいます。しかし病に負けることなく、14歳で英語を学ぶために教会に通い、そこで信仰の道に入りました。 結核で生死の境をさまよった賀川は、生涯を人びとのために尽くすことを決意、神戸のスラム街での救貧・伝道活動に身を投じましたが「社会の仕組みが変わらない限り、貧しい人びとの暮らしは少しも良くならない」と感じます。 26歳になった賀川はアメリカ・プリンストン神学校に入学、大学の聴講生となります。そこで労働者デモを目撃し「一人ひとりは弱くても、手を取り合って結びつけば強い力になる」との思いに駈られ、29歳で帰国すると労働運動、消費者組合運動に身を投じ、現在のコープこうべのもととなる神戸購買組合や灘購買組合の設立に奔走します。賀川豊彦ポートレイト■困窮した人、貧しい人のために 賀川の目は、厳しい状況にあった農村にも向けられ、労働者としての農業者を組織した「日本農民組合」の設立のために活動、また農村の医療状況改善のため、新渡戸稲造らとともに東京医療利用組合を設立し、医師会からの強硬な反対と闘いながら医療生協の原型となる形をつくりました。昭和8年には東京医療利用購買組合中野組合病院(現・東京医療生活協同組合中野総合病院)を設立し、だれもが手軽に医療を利用できる環境への大きな一歩となりました。 また、当時、健康保険が工場と鉱山の労働者に限られ、農民や一般市民がその恩恵を受けられなかったことにも着目、政府に健康保険制度の重要性を訴えました。その結果、昭和13年に国民健康保険制度が開始され、農民も加入できるようになりました。 関東大震災の際には、募金や救援物資を集めるとともに、無料診療所の開設などの救援活動を行いました。このように、その目は、常に困窮した人、貧しい人に向けられていました。■保険事業なくして協同組合なし 賀川は昭和11年に「保険制度の協同化を主張す」という論文を発表します。その要旨は「保険事業なくして日本の協同組合は発展しない」というもので、協同組合における保険事業の重要性を強く訴えています。協同組合が共済・保険事業を実施することにより、人びとの暮らしは安定し、また事業によって得られた資金は組合員の生活を支えるために有効利用できる、それを基盤に協同組合はさらに充実し大きく発展していくと考えたのです。 そして、この実現に向けて、保険会社を買い取って産業組合によって運営する仕組づくりを進めましたが、労働者資本の集結を恐れた反対勢力や保険業賀川豊彦とJA共済 ~協同組合による相互扶助を実現した『JA共済の父』~

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